- 掲載:2025年09月17日 更新:2025年09月25日
好きなもの、残したいものへの愛を届けたい。「銭湯図解」「純喫茶図解」で描く、心に沁みる光景。 画家 塩谷歩波
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早稲田大学大学院を修了後、設計事務所に勤める。その後、高円寺の銭湯・小杉湯を経て画家として活動。建築図法であるアイソメトリックと透明水彩を用いて銭湯を描く『銭湯図解』を発表。書籍を発刊。TBS『情熱大陸』、NHK『人生デザイン U-29』など、数多くのメディアに取り上げられる。近年は、純喫茶空間を描き出す『純喫茶図解』シリーズを制作している。/
建物を描きたくなる瞬間
塩谷 純粋に「この建物が好きだ」と心が動いたときに、描きたい気持ちが湧き上がってきます。そして、建物が複雑だったり図面が残っていないような、描くのも調べるのも〝大変〟な建物の方がやり甲斐があって好きです。たとえば、コンクリート打ちっぱなしのようなシンプルな建物は、あっという間に描き終えてしまうので、少し物足りなさを感じます。
それよりも、私自身がテーマとして取り上げている銭湯や純喫茶のように、調べるのにも描くのにも時間がかかる建物の方が、描きながら自分も楽しめますし、大きなやりがいを感じます。
―特に銭湯や純喫茶を描くとき、「ここを描くのが好きだ」と思われる部分はありますか。
塩谷 やはり、色彩の豊かな建物に惹かれます。水彩は光の表現を得意とする画材なので、その特性を最大限に活かせる建物は描いていて楽しいですね。例えば開口部が多い建物や、さまざまな素材が組み合わされた空間です。
以前描いた阿佐ヶ谷にあるgionという喫茶店などはまさにそうで、床材だけでもタイル、木、大理石調と多様で、空間ごとに描き分けられるのがとても面白いです。
経年変化に宿る美しさ、心惹かれる建材たち
塩谷 魅力的な建材といえば、やはり純喫茶や銭湯を象徴する「タイル」です。一つひとつに模様が施されていて、その繊細さを描くのはとても楽しいですね。
そのほかにも、錆びた銅や鉄を描くことも多いですが、経年による風合いが加わった素材はとても魅力的です。逆に、均質でのっぺりとした建材はあまり心を動かされません。むしろ少し寂れて汚れが生じたものや、色ムラのあるコンクリートの方に強く惹かれます。
―描いていて特に面白いと感じる素材や、さらに細かく描き込みたいと思う部分はありますか。
塩谷 たくさんありますが、表現が難しいと感じるのはやはりガラスですね。ガラス越しの映り込みには特にこだわっていて、実体のある人物はペンで、ガラスに映った像は鉛筆で描く、といった具合に描き分けます。つまり「実体ではない」ということを表す工夫です。そうした描き分けはとても楽しく、やはり難しいものほど描いていて面白いですね。単なる透明ガラスではなく、ガラスブロックや曇りガラス、色付きのガラスなど、仕掛けのある素材に惹かれます。
―床のレンガや壁面のタイルなども、模様まで非常に細かく描かれています。パン屋を題材にした作品では、パンが思わず食べたくなるほど美味しそうに見えました。そうした細部を丁寧に描くとき、特に意識していることはありますか。
塩谷 それは「細かく描けば描くほど楽しい」ということにつきます。特別な効果を狙っているわけではありません。むしろ日々の生活や締め切りのことを考えて「このあたりで切り上げておこう」と決めているに過ぎません。本当はもっと描き込みたいですし、もし許されるなら「大きなキャンバスにひたすら細部を描き続けたい」という気持ちが常にあります。
唯一無二であることの葛藤
塩谷 それはもう、数えきれないほどあります。フリーランスになると、月々の収入はどうしても不安定になります。私の絵は一枚が大きく完成までに時間がかかるので、月に描けるのはせいぜい一枚ほどです。 そんな制作状況であるにもかかわらず、アクシデントなどで、制作の途中や描き始めようとした段階でプロジェクトが止まってしまうことがあるのです。そのあたりは建築の仕事と少し似ているかもしれません。 建築の場合はいくつものプロジェクトを並行して進められますが、私の場合はこの絵一枚しかないので、それが止まると大きな痛手になります。
そうした経験から、今では建築の仕事と同じように、着手金をいただいたり、報酬を分割でいただいたりする形にしています。これはフリーランスになったからこそ痛感し、工夫するようになった点ですね。
それから、良くも悪くも、私の絵は「自分にしか描けないもの」なんです。誰かに任せられる部分がない。本当は誰かに手伝ってもらいたい気持ちもありますが、線一本にも作家性が出てしまうため、他の人には任せられません。色彩も自分で決めなければならない。調査についても、学生さんにお願いする手はあるかもしれませんが、遠方の建物が多く、結局自分で行った方が早い。作家性があるからこそ、全てを自分で担わなければならない。その厳しさを強く感じることは多いですね。
『銭湯図解』の成功がもたらした、次なる挑戦
タカラ湯図解:
北千住にある老舗銭湯の「タカラ湯」の図解。庭園をのぞむ縁側にはテーブルや椅子があり、縁側の眺めながら休憩ができる。タイルの色合が可愛らしい下町らしい賑やかな雰囲気が魅力的な銭湯。
―テレビ番組『情熱大陸』でも取り上げられましたね。
塩谷 はい。そのこともあり、一時期は「銭湯の専門家」と呼ばれることがありました。でも、私が一番やりたいのは銭湯の広報でも、専門家になることでもないんです。銭湯について発信している専門家の方々は大勢いらっしゃいますし、実際に銭湯で働いている方々の方が、ずっと詳しいはずです。私がその役割を担うのは違うと思っていましたが、本を出すと、メディアでの扱われ方はどうしてもそうなってしまいます。
そのイメージから離れたいという思いもあり、今はあえて銭湯を描かないようにしています。それは、これからも銭湯を好きであり続けるためであり、また本当に銭湯に強い想いをもって発信している方々の妨げにならないためでもあります。
ただ、『銭湯図解』の影響はいまだに大きく、メディアからの依頼も銭湯関連が多かったり、銭湯以外の絵を描いたときの反応がやや控えめだったりするのが現状です。
これは今も大きな悩みの一つです。先日出版した『純喫茶図解』も、「銭湯以外の世界にも取り組んでいく」という意思表示の一つでした。もちろん『銭湯図解』ほどの売れ行きには及ばないかもしれません。それでも、自分がこの先も絵を描き続けていくためには、今が踏ん張りどころだと思っています。多少辛くても、前に進むべき時期なのだと考えています。
新作『純喫茶図解』の舞台裏
上野 Coffee Shop ギャラン:
書籍『純喫茶図解』にも掲載されている純喫茶。
塩谷 『純喫茶図解』で紹介している上野の「古城」は『純喫茶図解』の中で、おそらく一番大変だった作品です。この作品は、2週間以上はかかったと思います。壁も床もどこを見ても細工が細かく、本当に骨が折れました。壁は石でできていて、床も規則的なパターンではないタイルなんです。
―この床はじゅうたんですか?
塩谷 いえ、タイルなんです。不思議なことに、縁が金色で、パネルのようなものを石と組み合わせて、まるで金継ぎのように金をあしらっているんです。この模様も格子状にパターン化されたものではなく、真上からの写真もないため、部分的な写真を参考に「きっとこういう形だろう」と推測しながら描きました。色数も多く、本当に大変でしたね。
―ちなみに、純喫茶を描く際に、お店から図面をいただくことはあるのでしょうか。
塩谷 いえ、9割方ありません。すべて自分で実測します。椅子の大きさまで測り、それをもとに平面図のようなものを作成し、そこからアイソメ図を描き起こします。アイソメ図も、CADソフトは使わずに手描きです。その方が今では早くなってます。
また、お店によって奥行き感が異なるので、アイソメ図の角度を調整してその場の空気感を伝える工夫をしています。
―作品を拝見していると、「ウォーリーを探せ」のように、ご自身が絵の中に登場されていると伺いました。
塩谷 はい。さりげなく自分を描き入れています。完全に自己満足なので、気づかれなくても構いません。その時々に着ている服を描くようにしています。
記憶と誇張が織りなす、絵画のリアリティ
塩谷 人を描く場合は、そのとき目にした人物をできるだけ正確に記憶しておくことが大切だと思っています。もちろん、その場でスケッチしても良いのですが、喫茶店で誰かが周囲をじっと観察しながら描いていたら、落ち着かないですよね。
―確かに、お店によっては席が近くて気になってしまうこともあります。
塩谷 そうなんです。だから現場では描かず、しっかりと目に焼き付けるようにしています。一方で、建物を描くときに心がけているのは、「写真の通りに描かない」ということです。色味などはできる限り忠実に再現しますが、必要に応じて少し誇張を加えます。その方が絵としての魅力が増し、その場の雰囲気や空気感がより伝わると考えているからです。
リアリティとは、単なる再現ではなく、誇張と記憶が重なった先に生まれるものだと思っています。
描くことで残すということ、その先の未来へ
塩谷 画業について言えば、特定のモチーフに縛られてしまうと表現が停滞してしまうので、これからもさまざまな題材に挑戦していきたいと思っています。ただ、銭湯にしても純喫茶にしても、私が本にまとめたいと感じる場所というのは、自分自身が実際に訪れて深く感動し、「この魅力を伝えたい」と強く思った場所なんです。
今回の『純喫茶図解』では絵と文章という形を取りましたが、実は写真も撮っています。絵や文章だけでは伝えきれない部分を、写真で補いたいと考えたからです。それでも、建物の魅力を最大限に引き出すには、まだまだ自分に力が足りないと感じています。耐震の問題などさまざまな理由から、建物は永遠に存在し続けるわけではありませんから。
―特に喫茶店は、閉店してしまうところも多いですよね。
塩谷 そうなんです。だからこそ、今ある景色を少しでも残していきたいという思いが強いんです。これから先、銭湯や純喫茶以外にどんな題材を選ぶことになるかは分かりませんが、自分が「残したい」と感じた場所を描き続けていきたいと思っています。
絵を描くこと以外でやってみたいこともあります。これはすぐ先の話ではなく、もっと長い目で見た夢なのですが、いずれ東京を離れて地方に移住したいんです。そして、自分でリノベーションした家で暮らし、1階をアトリエにするのが理想です。今より制作のペースは落ちるかもしれませんが、絵を描き続けながら、地元の子どもたちに絵を教えるような活動もできたらと思っています。
絵を描いていると、どうしても家に籠もりがちになります。それは集中して作品を生み出す上では良い面もありますが、人としての暮らしの豊かさという意味では満たされない部分もある。だからこそ、いつか自然のそばで、人と関わり合いながら絵を描き続ける生活ができればいいなと思っています。
取材
KENZAI-NAVI Media Planner 長谷部 沙織
取材を通じて感じたのは、塩谷さんの「細部へのまなざし」です。タイルや木目を丹念に描き込み、建物の存在感を再生させる姿勢は圧巻でした。膨大な作業を「時間をかけられる幸せ」と語る姿も印象的です。緻密さの中に自己投影や遊び心を忍ばせ、柔らかさも宿る作品世界。『銭湯図解』から『純喫茶図解』へと続く歩みは、建物を描くことで記憶を未来へつなぐ営みそのものだと感じました。
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塩谷 歩波 | Enya Honami
早稲田大学大学院を修了後、設計事務所に勤める。その後、高円寺の銭湯・小杉湯を経て画家として活動。建築図法であるアイソメトリックと透明水彩を用いて銭湯を描く『銭湯図解』を発表。書籍を発刊。TBS『情熱大陸』、NHK『人生デザイン U-29』など、数多くのメディアに取り上げられる。近年は、純喫茶空間を描き出す『純喫茶図解』シリーズを制作している。

