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建築家インタビュー
  • 掲載:2025年08月22日 更新:2025年09月10日

能登半島地震からの再起。同級生の縁が紡ぐ「美湾荘」再建プロジェクト
木原圭崇建築設計事務所 木原圭崇

木原圭崇建築設計事務所
能登半島地震で深く傷ついた和倉温泉の老舗旅館「美湾荘」。能登半島地震がもたらした衝撃、変わり果てた故郷の風景。 建築家の木原圭崇氏による「美湾荘」の再建は、同級生との再会から動き出しました。
この記事は、故郷への温かい想いを胸に一歩ずつ再建に向けて進む建築家の木原圭崇氏の記録です(連載記事となります)

設計士プロフィール

木原圭崇建築設計事務所
木原圭崇 | きはらよしたか
建築家 一級建築士

〒151-0072
東京都渋谷区幡ヶ谷1-2-2京王幡ヶ谷ビル4F

経歴
1982年 石川県七尾市生まれ
2000年 石川県立七尾高校卒
2004年 日本大学理工学部建築学科卒
2007年〜 今村雅樹アーキテクツ(有)
2013年〜 4FA一級建築士事務所共同主宰
2017年〜 木原圭崇建築設計事務所設立

受賞歴
・日経アーキテクチュアコンペ最優秀賞
・第一回立原道造賞
・ユニオン造形入賞
・日本建築学会作品選集
・日本建築家協会優秀作品選秀作品選他



損傷の著しい白鷺亭棟の建て替え

能登半島地震発生から三が日が過ぎた頃、私はたまたま自宅でテレビを観ていました。すると、見覚えのある顔と旅館が目に飛び込んできました。すぐに七尾高校の同級生である美湾荘の多田社長(以下、若女将)だと気づきました。 彼女は震災直後の困難な状況にもかかわらず、美湾荘の被害状況を詳細に説明し、和倉温泉、七尾市、そして能登全域への支援を懸命に呼びかけていました。 若女将のその姿を見て、私はすぐさま彼女に連絡を入れました。大変しばらくぶりの連絡でしたが、若女将とは同級生の間柄ですので、気兼ねなく震災に関する話ができました。

それから頻繁に被災状況の共有をしていく中で、震災から2週間ほど経過したときに、まずは現在解体中の白鷺亭棟の(特に損傷の激しかった)1階ロビーの改修設計の依頼がありました。私はその時点ではまだ現地に足を運ぶことができませんでしたが、以前から美湾荘と付き合いのあるゼネコンがこれからより詳細な調査を行うとのことでした。それから更に2,3週間経過した頃に、若女将から一本の電話が入りました。まずその第一声は、

「建て替えたいと思う!」

でした。ちょうどゼネコンと打合せ中とのことで、被害状況の詳細な報告があり、白鷺亭棟は全体が大きく傾いているとの報告を受けて、若女将は瞬時に建て替えを即決したようです。その打合せが終わったあとに若女将から再度連絡が入り、

「設計をお願いしたい!」

との言葉をいただき、この瞬間から白鷺亭棟の建て替えプロジェクトがスタートしました。高校入学時に同じクラスで席が隣同士だったご縁を、この厳しい状況の中で再び運命的に結びつけてくれたのかなと思いました。友人のために、美湾荘のために、故郷のために、何かしら小さな貢献ができる機会をいただいた喜びと感謝を強く感じた瞬間でした。

計画中の新しい白鷺亭棟の外観パース






離れた場所から故郷を想う

震災直後は、故郷の家族や親族、友人の安否が心配でなりませんでした。しかし、現地の状況を考慮し、しばらくは現地への立ち入り(帰省)を自粛するしかありませんでした。初めて現地に入ることができたのは、震災から2ヶ月が経ってからのことです。

ひどく損傷したエキスパンション部分



現地に足を運べない間も、施主である若女将とは写真や動画を通じて、被災状況を詳細に共有し続けました。私自身、他にもYouTubeをはじめとする様々なSNSで、現地の情報収集に努めました。
また、嬉しいことに地元の友人たちが私の建築家としての立場を気遣ってくれ、周辺の建物が倒壊した様子を写真や動画で送ってくれたり、建物や街の被害状況を詳細に教えてくれました。
全国ニュースでは奥能登地域の情報が多く、地元の七尾市や和倉温泉の情報は比較的少なかったように思います。そのため、現地から貴重な情報をいただけたことは、現状把握や現地入り前の予習として大変ありがたく感じました。

現地に伺う前に、震災直後から現地調査に入っていたゼネコンからの報告書が届きました。
調査図面には、各所の床の沈み具合や建物の傾き具合など、詳細な情報が数値で示されていました。それらの具体的な数値を見たことで、改めて地震のすさまじさを思い知らされました。

今改めて思うのは、当時はいつ余震が来るか、いつ建物が倒壊するか、いつどんな二次災害が発生するかも分からない大変危険な状況の中で、被災地にいる方々がたくさん情報を提供してくださったことに、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

調査を行ったゼネコンがまとめた報告資料




変わり果てた故郷と、美湾荘で目の当たりにした現実

震災からおよそ2ヶ月が過ぎ、ようやく故郷へ足を運ぶことができました。美湾荘へ向かう前に、できる限り市内を回ってみたのですが、まず驚いたのは、まるで粘土細工のように隆起し、マンホールが腰の高さまで飛び出した道路の悲惨な状況でした。大げさではなく、本当に映画の世界に入り込んだようでした。
今年、久しぶりに能登空港を利用する機会があり、その際に「のと里山海道」を走ってみたのですが、以前の姿が想像できないほどウネウネと波打ったような道路の変貌ぶりには、さらに愕然としました。

能登地方は瓦屋根の家が多いのですが、街中至るところにブルーシートがかけられている様子は非常に異様でした。瓦屋根はかなりの重量があるため、これまでも地震のたびに不安を感じていましたが、今回の地震では瓦屋根による被害が特に顕著に表れていました。ただ、当時の瓦屋根の施工不良が原因で瓦が簡単に外れてしまった家も多かったと聞いています。

そんな変わり果てた故郷の様子を確認しながら、目的地の美湾荘へ向かいました。まず目に入ってきた外観は、想像していたよりも損傷が少ない印象を受けました。テレビで何度も目にしたエキスパンションジョイント(EXP.J)部分の亀裂は、現地で見るとさらに衝撃的でしたが、周囲の被害状況を考えると、これだけの被害で済んだのは不幸中の幸いだったようにも感じました。

しかし、一歩内部へ入ってみると、外観からは想像できないほど多くの箇所で激しい損傷が確認できました。本来はフラットに繋がっていたはずの廊下は、棟間(EXP.J)で大きな段差が生じ、損傷を受けた側の建物がどれほど沈んだのかが一目瞭然でした。 地震が来る前までは、この建物で元旦という特別な時間が流れていたことを想像すると、本当にやるせない気持ちになります。
建築家として、長い時間をかけて関係者皆が苦労して建てられた建物が、一瞬にして倒壊してしまうという自然の威力の前での無力さを改めて痛感しました。東日本大震災のときにも同じような気持ちになりましたが、しばらくは崩壊した室内をただただ茫然と眺めるだけでした。

建築家としては失格なのかもしれませんが、この瞬間には「次」のことは何一つ浮かんできませんでした。



美湾荘から始まる「海を感じるまちづくり」

震災後、「和倉温泉創造的復興まちづくり推進協議会」のメンバーである美湾荘の若女将や高校時代の野球部の先輩といった身近な方々との交流を通じ、私は美湾荘だけでなく、和倉温泉全体、ひいては七尾市全体の復興ビジョンを強く意識するようになりました。
旅館という建物はそれ自体が一つの世界観を作り上げているため、各施設内だけでも十分に満喫できるものです。
しかし、かねてより和倉温泉においては「街全体を楽しむ」という要素が不足しているように感じていました。私はご縁があり、ここ数年、別の土地で温泉旅館の設計に携わってきました。その経験から多くの特色ある温泉街を視察し、「街歩き」の楽しさを知りました。 自身の故郷であることを差し引いても、和倉温泉街にはその感覚があまり感じられず、建築家として、また地元を離れた身としての視点から、現在もその要因を探り続けています。
その一つとして、和倉温泉の最大の魅力である「海」に向かって多くの旅館が建っているため、街から海が見えない・感じられない構造が挙げられると思います。各旅館が海に向かって壁のように建ち並ぶ様相は、この温泉街の数十年来変わらない馴染み深い風景であり、ヴァナキュラーなものであると理解しています。そこで、それを大々的に変えるのではなく、今回の復興(一部建て替えなど)を機に、ちょっとした「建築的仕掛け」によって、もう少し「海」を感じられるまちづくりができないかと議論を重ねています。

和倉温泉の復興ビジョンには「めぐる」という大きなテーマがあります。その一つがまさに街をめぐることです。そこにもっと「海」との「感覚的距離感」を近づけたいと提案しています。
若女将もその考えに賛同してくださり、美湾荘では「ハレの切り通し」的な空間を提案しています。美湾荘自体は一部建て替えのため、道路側から見た外観は大きくは変わりませんが、元々前面道路近くにあったエントランスロビーの半分程度を無くし、そこを大きなピロティとして計画しています。ピロティの先はシンプルで大きな窓とし、海まで「抜け」感のある洞窟のように見立て、そこに人が吸い込まれていくような切り通し空間を表現できればと考えています。
街からその抜けを介して海を感じられるだけでなく、プログラムとしても抜けの先に誰でも利用できるようなカフェを提案したり、時には海に面した庭の一部を開放したりと、旅館の一部が街の一部のように、そこが街の中の一つの「ハレの空間」となるような、そんな空間、そんな街を提案できないかと議論を続けています。

また、高校時代の野球部の先輩が経営する旅館は、全体を建て替え、新施設では食事提供をしないことを想定しているようです。そのため、宿泊客はどこか別の施設で食事を取ることになりますが、美湾荘の既存棟1階にはお食事処がありますので、そこを利用することも良い相乗効果を生むと考えています。寝泊まりの場と食事の場が「離れ」のような関係になり、それらをつなぐ街の中を自然と「めぐる」ことができるようになります。
これは、ハード面でもソフト面でも街に新しいインタラクティブな関係性を生み出すでしょう。その実現にはまだまだ課題もありますが、この震災という逆境を和倉温泉街の大きな飛躍のきっかけにしたいということを、それぞれの専門的な視点から常々議論しているところです。




見えにくい復興への道筋と、外部連携への提言

震災直後はさまざまな事情でなかなか現地入りが叶わず、この目で被災状況を確認しない限り、美湾荘の再建をどのように進めていくべきか判断が非常に難しいと感じました。ニュースやウェブで「公費解体」の進捗状況や手続きに関する情報を調べましたが、その「分かりづらさ」が結果として公費解体の遅れの最大の要因だったように思います。

現地入りする前も、地元市民や関係者のSNS情報などをできる限りチェックし、常に最新の「生の情報」を得るように努めました。東京にいても、できる限り被災地に寄り添ったやり取りができるよう心がけました。実際に現地入りし、その被災状況を目の当たりにした際はまさに「百聞は一見に如かず」でした。
しかし、私自身の目で得られる情報には限りがあるため、現在でも継続的にSNS情報などにも気を配りながら、情報収集・情報共有に努めています。個人的な話になりますが、父が日々復興に関連する新聞記事などをスクラップしてくれていたので、帰省の度にそれらを読み込むことも大変貴重な情報源となっています。

美湾荘の建て替え計画においては、早い段階から地元自治体などとの事前協議を開始しました。このような非常時においては、自治体など関係各所と連携しながら事を進めていかないと、なかなか前に進めないだろうという建築家としてのアンテナが働き、美湾荘関係者や(初期は解体に関する)施工者の方々と綿密な協議を進めてきました。
住宅規模以外では美湾荘がこれらの協議の第一号ということもあり、一つ一つ手探りでの協議が続き、関係各所もこの非常時には初めて経験することが多く、その過程で皆が同じ方向を向いて前進していかねばならないという一体感も生まれてきました。

その一方で、震災後から市や各種団体へ復興に関しての協調を訴えたりもしてきましたが、それに対するリアクションが薄かったことは非常に残念でした。
私が現在は地元市民ではないからかもしれませんが、傍から見るとそういった市の中枢機関の動きが、私の目には消極的に、閉塞的に映ったのも事実です。マンパワー不足や対応すべきことが多いといったさまざまな事情はあるにせよ、もっと外部との連携を図っていくべきだと現在でも強く意識しており、チャンスがあれば常に中へ切り込んでいきたいと思っています。




困難を乗り越える一歩ずつの軌跡

2024年元旦、突然「美湾荘の日常」が止まってしまいました。その日常を少しでも早く取り戻したいという一心でした。しかし、プロジェクトの発足当初はゴールが非常に漠然としていて、その道のりを想像するだけで、設計者である私ですら途方に暮れてしまいそうでした。 そこで、まずは目の前の課題を一つ一つ整理し、それを着実にクリアしていくこと。そして、この非常時には普段の感覚が通用しないということを関係者全員で共有し、少しずつ復興に向けて前に進んでいくことを大切にしようと考えました。

少し大げさに聞こえるかもしれませんが、実際のところ、各課題のハードルは想像以上に高いものでした。水が出るようになった、お湯が使えるようになった、ようやく建物内の配管検査ができるようになったといった被災地共通の問題はもちろんのこと、建物の再建に向けて地盤調査ができたことや、ようやく解体工事業者が見つかり解体工事が始まったことなど、一つ一つの出来事に本当に大きな喜びを感じ、それが次へ進むための大きな勇気やエネルギーとなっています。

普段の業務で解体業者探しに時間をかけるなんてことはほとんどありません。でも今回は、私たち設計者が中心となって何社にも声をかけ、決まりかけた業者との話が破談になるなどの苦い経験も経て、数ヶ月間粘り通してようやく業者を確保できました。今となっては、こんな経験も良い思い出の一つです。何より、一つ一つの目的が達成された時の若女将や美湾荘関係者の喜ぶ様子は、一生忘れることはできません。

具体的に設計業務を進めるにあたっては、まず設計チーム全員の意識を同じ方向へ向けることに注力しました。皆が復興プロジェクトであることを理解していても、まずは被災地の実情を一人一人が自分自身の目で、肌で感じてもらうことが大切だと思いました。
そこで、各設計者に現地へ足を運んでもらい、そこで見たこと、感じたこと、現地でどのような問題に直面したかを設計チーム全体で共有しました。具体的な設計がスタートする頃には、被災地におけるさまざまな実情が見えてきたこともあり、「普段の感覚では一筋縄ではいかないことばかりだ」という共通認識が強く芽生えてきました。

現在着々と進行中の旧白鷺亭棟の解体状況




美湾荘再建に立ちはだかる「コスト」「時間」、そして「一部建て替え」の壁

美湾荘の再建には、大きく分けてソフト面とハード面でそれぞれ一つずつ、重要な課題があります。

まず一つ目は、「コスト」と「時間」の問題です。通常のプロジェクトでも意識する要素ですが、震災による復興プロジェクトにおいては、特に深刻な問題として重くのしかかってきます。何の前触れもなく突然建物を失い、従業員を失い、一瞬にして生業が激変するわけですが、それらを簡単には取り戻すことはできません。

美湾荘は一部建て替えに留めることができたものの、その規模は2,000〜3,000㎡にも及ぶため、それなりのコストと時間がかかります。
例えば、なりわい再建支援補助金制度によって最大3/4までの補助はあるものの、残りの1/4は事業にとって新たな負担となります。また、美湾荘は(「幸いにも」という表現が適切かは難しいところですが)震災後も従業員のほとんどが残ってくれており、現在も雇用調整助成金で多少の補填をしながら、従業員への給与の支払いが続いています。雇用調整助成金で不足する分は毎月手出しでの対応が続くため、営業再開が延びれば延びるほど、どんどんマイナスが増えていくことになります。
この「コスト」と「時間」の問題はそのまま設計業務に直結するため、このようなソフト面においても常に意識を、注意を払っていかねばなりません。

次に、建物の「一部建て替え」というハード面での問題です。美湾荘は綿密な調査を行った上で、損傷の激しかった「白鷺亭(高層棟)」のみを建て替える方針としました。この白鷺亭(高層棟)は全建物の海側の中心に位置しているため、前面道路側からは最も(重機や作業車の)アクセスが悪く、かつ、海側には十分な作業スペースがないことから、施工計画上大きなネックとなります。
(現在進行中の解体工事も同様にですが)作業の効率が大きく落ちるため、それが先述の「コスト」や「時間」にも大きな影響を与えることになります。

また、美湾荘はこれまで何期にもわたり増築を繰り返してきたため、各棟の基礎が複雑に絡み合い、かつ、地中にはたくさんの杭がそのまま埋まっています。そのため、新しい基礎や杭を施工するための地中内スペースも十分にありません。
一部建て替えは、全棟を建て替えするよりもコストは抑えられますが、それを実現するには既存建物との関係において複雑に絡み合う多くの課題を乗り越えていく必要があります。



インタビュー続編について

インタビューの続編は10月公開の予定です。



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設計士プロフィール

木原圭崇建築設計事務所 木原圭崇
木原圭崇建築設計事務所
木原圭崇(きはらよしたか)
建築家 一級建築士

〒151-0072
東京都渋谷区幡ヶ谷1-2-2京王幡ヶ谷ビル4F

【経歴】

1982年
石川県七尾市生まれ
2000年
石川県立七尾高校卒
2004年
日本大学理工学部建築学科卒
2007年〜
今村雅樹アーキテクツ(有)
2013年〜
4FA一級建築士事務所共同主宰
2017年〜
木原圭崇建築設計事務所設立


【主な受賞歴】

日経アーキテクチュアコンペ最優秀賞

第一回立原道造賞

ユニオン造形入賞

日本建築学会作品選集

日本建築家協会優秀作品選秀作品選他

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